膳所焼(ぜぜやき)は近江国膳所(現:滋賀県大津市膳所)で焼かれたやきものです。
元和七(一六二一)~寛永十一(一六三四)年までの膳所城主は菅沼織部定芳(一六四三、寛永二十没)の時代にはすでに焼かれていたと考えられています。
菅沼織部は光悦・松花堂・遠州らと茶交の篤かった数寄者でした。
膳所の窯で特に茶陶で有名なのは瀬田の大江で、その作陶は織部時代と考えられています。次の城主石川忠総(一六五〇、慶安三没)が遠州の弟子で、遠州好みの茶入が焼かれており「大江茶入」が有名である。この膳所焼も遠州七窯の一つに数えられています。
石川家が1651年に伊勢亀山へ移封の後は本多家が膳所城主となり幕末まで続きます。
本多家の御用窯は雀ケ谷(現:雀ケ丘)にあり雀ケ谷焼ともいわれます。
また幕末の交趾釉の梅林焼も膳所焼の一種として数えられています。
作風は瀬戸系の陶法を特徴とし、鉄釉を特色とします。
【補足】
近江国瀬田(現滋賀県大津市瀬田)の陶器である瀬田焼も旧膳所領内にあったため膳所焼の中に入るとされています。
《販売》膳所陽炎園 -仁清写耳付水指-
※参考文献『原色陶器大辞典』
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