上野焼(あがのやき)とは、福岡県田川郡赤池町上野で製陶されたやきものです。遠州七窯の一つでもあります。
陶祖は尊楷(そんかい)という人。この人物は日本が戦国時代に秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役:一五九二~一五九八)の際、武将の加藤清正が日本へ帰国する時に引き連れられ帰化した朝鮮の陶工になります。
帰化した後には名を上野喜蔵としました。
【細川時代の上野焼】
一六〇二年(慶長七)細川忠興(三斎)が丹後国(現京都府舞鶴市)から豊前国小倉(現:福岡県北九州市小倉区)に転封します。その時、尊楷は小倉に招かれ移住し築窯することになりました。
その後一六〇五年頃、上野に移り開窯します。
一六三二年(寛永九)細川家の肥後国(現熊本県)は熊本城転封に伴い、尊楷は二子を連れて八代(以後、八代焼を開く)に移住します。
【小笠原時代の上野焼】
尊楷の三男孫左衛門(後の十時家)と娘婿は母と共に残り次の藩主である小笠原家に仕えます。
その後、分家していき十時家、渡家、吉田家と幕末へと時代が進んでいきました。
【上野焼緒窯】
釜ノ口窯、皿山本窯、岩谷など、皿山本窯は明治年間まで続きます。
【明治以降の上野焼】
明治維新をむかえ小笠原家は東京に移住させられたので御用窯は廃窯になってしましました。その後、何とか復興させたいとのおもいで、高鶴萬吉、熊谷九八郎ら数人が共同出資し日田から陶工を雇用し作陶を始めるが、現状は厳しく脱退していくものが多かったようです。
しかし熊谷九八郎は最後まで残りました、独力で上野焼を経営することになります。
それ以降は渡家、高鶴家なども続き現在までに至ります。
【上野焼の作風と窯印】
初期の作品には土灰釉・藁灰釉・鉄釉を使用し唐津焼や高取焼に類似しているモノも有ります。後代には白釉の地に上野青釉(銅緑釉)や三彩を掛けた作風や紫蘇手や玉子手・柚肌手などが特色です。
古作は無印のものが多いですが、作者自身の名前のみ或いは名前に日付などを記したモノが伝世しています。幕末頃からは巴印(ともえいん)などがみられるようになります。
この他に器の高台内に現れる削り巴を一つの印として認識されている。小笠原中期時代までは右回り、左回りが共存し一定ではない。化政期頃から上手の作には左回りと一定になるとの研究報告がでております。その後明治以降に窯印化されていく様になりました。
※参考文献『原色陶器大辞典』『日本陶器全集(大正)』『豊前上野焼研究』
当店では茶道具に限らず、
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