茶の湯日記

《買取作家》長岡住右衛門・出雲楽山焼

長岡住右衛門(ながおかすみえもん)

島根県松江市の松平家別邸で焼成された陶器を楽山焼と称しています。出雲焼の一種になります。一六七七(延宝五)年、二代藩主・松平綱隆の懇望で深川萩の陶工・倉崎権兵衛が召し抱えられ、茶陶焼成に優れた手腕を見せたと伝えられております。他に深川萩の赤川家と松本萩の佐伯半六の一族と考えられている加田半六も派遣されたと伝えられております。楽山焼の二代としては名工と名を馳せた弟子の加田半六が継承したそうですが、四代加田半六の時代に御用焼物師を免職となってからは一時中絶したようです。

一七五六(宝暦六)年、六代藩主・松平宗衍の命で布志名焼の陶工・土屋芳方が楽山焼に従事し、二十五年間ほど御用焼物師を務めたといわれております。しかし慣例により出雲地方では芳方を楽山焼の代としては数えないようです。

・五代長岡住右衛門:生年不詳~一八二九(文政十二)年

名は貞政といい、四代以降不振となった楽山焼を再興するため、宇賀焼に従事していたとされる長岡住右衛門が、七代藩主・松平不昧(治郷)に抜擢され、一八〇一(享和元)年に再興し五代を襲名しました。

不昧公の指導のもと、茶陶を中心に力量を大いに発揮、「楽山焼中興の祖」ともいわれております。また、江戸の松平家別邸に大崎御庭焼が開窯された際には、不昧の意向による名器の写しや不昧好みの作品を焼成して名声を上げたようです。

・六代長岡空斎:生年不詳~一八五九(安政六)年

名を貞正といい、藩命を受け布志名焼の土屋家から長岡家の養子となり、楽山焼六代を継承し「空斎」と号しました。京都(九州という説も有り)において色絵の陶技を伝習したとされ、楽山焼の色絵は精巧になり、高麗茶碗の他に仁清写に名作が遺される事になったといわれております。

 

・七代長岡空入:生没年不詳

・八代長岡庄之助:生没年不詳

 

・九代長岡空味:一八七四(明治七)~一九六〇(昭和三五)年

九代坂高麗左衛門に師事しました。一九一七(大正六)年、不昧公百年祭に公開された茶器名品に刺激されて茶趣がより加わったと伝えられています。楽山焼を後世に残した業績は大変大きく名工の誉が高いです。藩窯の流れを汲む事から御用窯としての格式を重んじて品位を重視ししました。

・楽山焼南蛮水指:空味作

・空味陶印

 

・十代長岡空處:一八九八(明治三十一)~一九六一(昭和三十六)年

九代の養子で本名を秀三といい、一九六〇(昭和三十五)年、十代住右衛門を襲名しました。

・十一代長岡空権:一九二九(昭和四)~

十代の長男として誕生。十一代坂高麗左衛門に師事します。一九六五(昭和四十)年、十一代住右衛門を襲名しました。二〇〇〇(平成十二)年には島根県指定無形文化財に認定されました。伝統的技術を守り、伊羅保茶碗を中心に作陶を展開されています。

・楽山焼茶碗:空権作

・陶印

・箱書

・十二代長岡空郷:一九五六(昭和三十一)~

島根県松江市の生まれ。一九八七(昭和六十二)年、十一代空権の三女と結婚。二〇〇三(平成十五)年から「空郷」と号しました。

 

当店では長岡住右衛門歴代の作品の買取りをしております。

 

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