茶の湯日記

唐物の輸入・広がりー茶の湯の歴史

・日 宋 貿 易

八九四(寛平六)年、中国唐の弱体化などが理由で、遣唐使と朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)が中止になると、唐の個人的な「私貿易」によって、中国・東南アジア諸国の品物が輸入されるようになりました。

さらに唐の滅亡により、九六〇年にが建国されました。宋の商人たちは船で朝鮮を経由せずに、東シナ海を横断し直接、当時我が国の窓口「博多」に着船しはじめました。当時太宰府が貿易において朝廷の出先機関となっておりました。

この頃の輸入品には、香料・薬品などに加え、虎の皮や茶碗などの陶磁器類、綾錦などの唐織物類、書籍・経典、文房具などその種類は多種に渡っていたもようです。太宰府はこの輸入品を優先的に買うことができたようで、それを行使して京都の貴族たちにこれら唐物を送っていたようです。

しかし、やがては宋の商人たちは太宰府役人に唐物を安値で買われることを嫌い、博多以外の貴族や社寺の私領「荘園」に着船するようになっていたようです。平清盛(一一一八~八一)は、太宰府を経由せずに都に近い現在の神戸港のあたり(大輪田泊:おおわだのとまり)に着船するように、瀬戸内海の航路を整備しました。

この頃には清盛や平安京の貴族たちは貿易で輸入された越州窯青磁碗、白磁碗、黄釉碗などの中国製品で茶を飲んでいたであろうと推測がされています。宋から輸入された代表的な青磁茶碗の一つに「※馬蝗絆(ばこうはん)」があります。この茶碗は清盛の子重盛が所持していたといわれています。

 

・渤 海 貿 易

貿易は西日本ばかりで行われていたわけでなかったようで、日本海を横断して東北の出羽(現在の秋田・山形)、能登(現石川県)、敦賀(現福井県)などに渤海国(六九八~九二六年)の渤海使が着船していました。黒貂(くろてん)、アザラシなどの毛皮や、鮭・昆布の海産物や中国製品まで日本にもたらしていました。

また渤海の使節は平安京にも来ていたようで多くの貿易品が京都のみならず東北一帯にもたらせていたことが推測されています。日本からも遣渤海使が送られ活発な交易が行われていたようです。

このほかにも朝鮮半島との貿易もありましたので平氏一族だけでなく各地の豪族たちも唐物の陶磁器や品物を数多く入手していたとされます。奥州平泉(現岩手県)の藤原氏屋敷跡などからも唐物の陶磁器が出土しており、貿易品が全国の有力者の間にまで行きわたっていたことの証とされています。

※青磁輪花茶碗・銘「馬蝗絆」※

東京国立博物館蔵。重要文化財指定。龍泉窯、南宋時代十三世紀の作品。数ある請来の中で口づくりが輪花状を成すものは珍しく、釉色も美しい一品。かつて平重盛が中国の育王山に黄金を寄進した返礼として贈られたという伝承をもつ。後に割れたため足利義政が同じをもの求めて中国に送るが、すでにこのようなものはなくなっており、鎹(かすがい)でとめて送り返してきたと伝えられている。その鎹の様子が馬の背にとまる蟋蟀(こおろぎ)に似ていることから銘の由来となっている。

 

次回は「仮名の登場」です。

※参考文献「一日五分 茶の湯の歴史/谷端昭夫(淡交社)」※

 

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