茶の湯日記

《買取作家》永楽善五郎家・千家十職土風炉・焼物師

永楽善五郎(えいらくぜんごろう)ー千家十職永楽家ー

千家十職の職家で現在まで続く名家。現在は幅広く茶陶の作成をしておられますが、当初は土風炉師として活躍し、初代から九代までがそれにあたり姓も「西村」としていました。
「永楽」の称号は一八二七年、紀州徳川家の治宝(はるとみ)候に召されたおりに「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印とともに「永楽」の銀印を賜ったことで十代・十一代が共々名乗るようになりました。それから一八七一(明治四)年に正式に家名としたといわれております(永楽を姓とし茶陶を制作していった時代:十代から当代)。
代々「善五郎」を襲名してきましたが法号も各代に与えられています。※下記に記す歴代名はこの法号になります。

土風炉師の時代

・初代宗禅(そうぜん:一五五八年没)

家祖。大永年間(一五二一~二八)頃に大和国西京(現:奈良市西ノ京)に住し、奈良の春日大社の供御器を製作していたと伝わっております。当時の茶人武野紹鷗の指導により茶の湯に用いる土風炉を造りはじめ、晩年には土風炉師として名を得て「善五郎」と名乗るようになったといわれております。

・二代宗善(そうぜん:一五九四年没)

初代の子。奈良西ノ京から泉州堺(現:大阪府堺市)に移住しています。当時堺は千利休をはじめ茶人を多く輩出し、茶の湯の中心地の観を呈していたことから二代の堺移住も土風炉師としては当然であったと考えられています。初代にもまして名手とうたわれていたそうです。

・三代宗全(そうぜん:一六二三年没)

三代の頃には京都へと移住しました(現下京区あたり)。初代から三代にわたり奈良⇒堺⇒京都へと茶の湯の中心地に変遷に照らし合わせての移住は興味深いとされています。三代は小堀遠州の知遇も得て「宗全」の銅印を賜り、以後九代まで土風炉にはこの印が捺されている。

以後、四代宗雲(そううん:一六五三年没)⇒五代宗筌(そうぜん:一六七九年没)⇒六代宗貞(そうてい:一七四一年没)⇒七代宗順(そうじゅん:一七四四年没)現上京区あたりへ⇒八代宗圓(そうえん:一七六九年没)⇒九代宗巌(そうごん:一七七九年没)

京焼の精華を求めて ー土風炉師から焼物師へー

・十代了全(りょうぜん)

一七七〇年生まれ、九代の子。この代から茶陶の分野にもたずさわるようになっていきました。九歳で早くも父を、十一歳で母を失う。さらには天明の大火(一七八八)も経験し苦労が絶えなかったようです。この大火によって家と家伝の記録類も失うこととなりました。その後は樂家九代了入のもとで陶技をみがき樂家の近くに家を再興しました。土風炉の他に火鉢・灰器・火入、また交趾釉の研究により向付・香炉・花入れなども造っていたことが確認されております。三千家の職家として働き、三井家にも出入りする一方で紀州徳川家の治宝候の知遇を得て様々な注文を賜りました。一八一七年、剃髪し家督を養子の十一代へと譲りました。作風がこの頃より多彩になったとされ、作風変遷の様子が見られるようです。一八四一年没。

・十一代保全(ほうぜん)

今日いわれるところの永楽焼の祖とされています。幼小期に陶器の釉薬・絵具を扱っていた絵具屋に奉公した後、大徳寺黄梅院大綱のもとに喝食(かっしき)として入り、一八〇七年、十二歳の頃に大綱和尚と絵具屋木村小兵衛の仲介で十代の養子となる。茶の湯は久田家七代宗也に入門、陶技は粟田口の岩倉山家・宝山家に学び、画を狩野永学など生来研究熱心な人物とされています。多彩な作品を多く伝える。青木木米・仁阿弥道八とともに「幕末京焼三大名工」とうたわれた。一八五四年没。

・十二代和全(わぜん)

十一代の子。一八四三年、保全が善一郎と名乗り隠居に伴い若干二十一歳の若さで十代を襲名。義弟宗三郎(塗師佐野長寛の次男で十一代の養子となる)との問題(宗三郎を長に善一郎家をおこそうとした)から保全とは不和になるものの、保全不在の間、宗三郎と家業を続け善一郎家との統合をはかったようです。一八五二年、洛西御室の仁清の窯跡に御室窯を開いて、登り窯を築き一八六四年頃まで作陶をし、翌年には加賀の大聖寺藩主に招かれ九谷焼の指導のため石川県へと赴く。一八七一年家督を長男に譲りました。戸籍法の規定によって「永楽」を正式としました。一八九六年没。

・十三代回全・曲全(かいぜん・きょくぜん)

十二代和全の義弟宗三郎を回全とし、また保全・和全の二代に仕えた西山藤助(轆轤師)を曲全としてこの二人を十三代に数えておられます。回全一八七六年没。曲全一八八三年没。

・十四代得全(とくぜん)・得全室妙全(みょうぜん)

十二代和全の長男。十九歳で十四代を襲名。明治維新直後で茶道も衰微し、父和全と回全・曲全らと苦労を重ねたようです。困窮を極めていたようですが、三井・鴻池の二家からは庇護を受けました。得全は新時代にふさわしい陶家として永楽家の再興に取り組んでいったようです。国内外の博覧会への積極的な出品からそのことがうかがえます。一九〇九年急逝。得全亡き後の家業は妻であるによって明治四二~昭和二年まで十九年間にわたり継承され現在の基礎を築いたともいわれております。号を妙全(みょうぜん)とする。妙全は昭和二年没。

・十五代正全(しょうぜん)

十四代の甥にあたり十八歳で永楽家に入る。得全のもと轆轤・陶技を学び得全没後は妙全を助け家職に勤めました。昭和二年十五代を襲名するもわずか五年後には亡くなってしまいました。昭和七年のこと。

・十六代即全(そくぜん)

十五代の長男。妙全の養嗣子になり、小学校卒業後は京都市立美術工芸学校に通いながら正全から陶技を学びました。十八歳にして十六代目を襲名。確かな技と伝統の融合で戦後茶陶の飛躍をはかりました。平成十年没。

・十六代作乾山写茶碗

・十六代陶印と箱書

 

・十七代善五郎(当代)

十六代の長男。一九九八年、十七代襲名。現在に至る。明と暗、両極を併せ持つより深い日本人の心根を追求することを掲げ作陶に励んでおられます。

 

 

※参考資料「永楽家京焼の精華ー十七代永楽善五郎」(淡交社)  

 

 

当店では永楽善五郎の作品の買取りをしております。

関連記事

コメント

この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP