中村宗哲(なかむらそうてつ) - 千家十職・中村家 -
中村宗哲(なかむらそうてつ)家は茶道具である漆器物(棗など)を代々に渡り今日まで制作してこられた塗師の家系になります。初代は江戸初期にさかのぼり現在は十三代目が当代として活躍しておられます。その歴代を略歴にまとめております。
初代宗哲:元和三(一六一七)~元禄八(一六九五)年
隣家が塗師吉文字屋(吉岡家)で、京都武者小路に生まれた八兵衛(通称)は千宗旦の二男(吉文字屋の養子)が千家に戻るにあたりその娘と塗師の家業を託されました。以後「宗哲」と称し千家の塗師となりました。千宗旦の指導のもと武者小路家四代一翁(宗旦二男)、表千家四代江岑(宗旦三男)、裏千家四代仙叟(宗旦四男)の好み物を製作しました。宗旦の弟子藤村庸軒(ふじむらようけん)とも親しく好みを製作しました。また茶杓の下削りに優れていたようで宗旦・一翁・庸軒の下削りと漆拭きをしたとも伝えられているそうです。
二代宗哲:寛文十一(一六七一)~宝永三(一七〇六)年
幼少期から茶の湯の世界に交わり、十一歳の頃裏千家四代仙叟の茶事に父と座した記録も残っているようです。家督は二十五歳で継ぎますが、三十六歳の若さで逝去します。豊田姓で御所御用・大名向けの制作も行いました。この豊田姓での制作は幕末まで引き継がれます。
三代宗哲:元禄十二(一六九六)~安永五(一七七六)年
幼くして家業を継ぐ。また茶道も究めたともいわれております。作風は重厚で雅味ゆたか。今日までその規範とされており歴代中最もその名が高いとされています。
四代宗哲:享保十三(一七二八)~寛政三(一七九一)年
三代の婿養子。一時、一条新町別宅にて八郎兵衛の名にて塗師職を営んでいたようです。また伴為安・豊田八郎兵衛の名で御所御用も務めました。三代の急逝にともない後室を迎え四代を継ぐことになりました。
五代宗哲:明和三(一七六六)~文化八(一八一一)年
四代の婿養子。天明の大火(一七八八)で避難させた資料の整理に力を注ぎ、初代からの寸法帳、切型などを整備し家譜をしっかりと整えたそうです。この頃より銘も漆書きから針彫になり箱書の書体・印なども改めました。
六代宗哲:寛政四(一七九二)~天保十(一八三九)年
五代の長男として生まれる。家業の形物塗師職を継いだものの四年後に家督を弟に譲り、自らは八郎兵衛の名で通例の塗師職を営みました。意匠的な作品は宗哲の名で伝世しているものが確認されています。
七代宗哲:寛政十(一七九八)~弘化三(一八四六)年
五代の二男。裏千家十一代玄々斎の推挙により尾張徳川家御用を務め「得玄」の号を拝領。お好みの趣向を余すところなく表現した堅牢精緻な作品が特徴とされます。歴代中最も優れた作品を残したといわれております。
八代宗哲:文政十一(一八二八)~明治十七(一八八四)年
七代の長男として生まれる。七代急逝により十九歳で家督を継ぎました。御所御用では頭取として、皇女和宮降嫁道具などの仕様帳を記し、御用塗師の入札や制作を取りまとめたそうです。
九代宗哲:安政三(一八五六)~明治四十四(一九一一)年
八代の婿養子。明治維新の家業不振の時期にあたり学校勤務のかたわらで修業を積んだようです。
十代宗哲:文久二(一八六二)~大正十五(一九二六)年
八代の四女にあたり九代の妻。九代没後、二男が継承するまでの間、尼塗として活躍しました。
十一代宗哲:明治三十二(一八九九)~平成五(一九九三)年
九代の二男として生まれる。十六歳で千家に出入りし一九二五(大正十四)年に家業を継ぎました。三千家の他数寄者の好み道具や、独自の考案品まで制作の幅を広げました。
十二代宗哲:昭和七(一九三二)~平成十七(二〇〇五)年
十一代の長女として生まれる。京都市立美術大学卒業後、父十一代の引退にともない一九八三(昭和六十一)年より女性として初めて千家に出仕。漆器の普及を願い、三人の娘と「哲工房」を設立しました。
十三代(当代)宗哲:昭和四十(一九六五)~
祖父十一代、母十二代に師事しました。二〇〇六(平成十八)年十三代を襲名されました。父は三代諏訪蘇山。古来からの幾何学的な文様・形をアレンジし、色漆・金粉を使用した茶道具を造っておられます。また哲工房においては現代の「つどい」と「くらし」に合う美しい漆器を制作されておられます。
※参考資料「茶道具の名工・作家名鑑ー淡交社編集局編」(淡交社)
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