茶の湯日記

《買取品目》朝日焼ー京都府宇治市の焼物。初代から松林家まで。

【桃山時代から江戸初期の朝日焼】

慶長年間(1569-1615)、初代の奥村次郎右衛門藤作(陶作)が、京都府宇治市の朝日山の麓に築窯し、小堀遠州の指導を受け「朝日」の二字を与えられたとされます。

これが後に遠州七窯に数えられる所以となります。主に遠州好みの茶器を製陶し、初代・二世・三世と続きこの時代の作品を古朝日といいます。多くは茶碗で御本風が主な特徴です。素地は褐色、釉肌に黒斑、刷毛目などの櫛描きなどが特徴です。

【江戸中期から幕末期に途絶えたとされる朝日焼】

四世以降は俵屋の屋号のもと名も長兵衛となります。一時途絶えたと伝えられていたようですが窯の火は絶やさず継承されていました。

背景には大名の庇護が薄れ止むを得ずに生活の糧を他の職業(農業=製茶業や宇治川の渡し船の管理など)に求めなければいけない厳しい現状があったのです。元禄(1688)から幕末期までは半農半陶の多角経営時代でありました。

作者不詳:江戸中~後期作

 

【幕末期 ~朝日焼の再興~】

八世は嘉永年間(1848-1853)に御所の出入りを許され、公卿庭田家の庇護のもと朝日焼の復興に奮闘しました。新しい取り組みとして煎茶器を完成させます。それを九世が慶応年間(1665-1867)へと継承し、江戸初期を凌ぐ盛期を迎えたようです。窯の歴史で一番の過渡期といわれています。

【再興以後の明治・大正・昭和・平成・令和まで】

明治の文明開化と変貌の時代は十世安兵衛から十一世平次郎へと続き、再び厳しい時代へと変わっていきます。約10年前の発展から一転、作品をたくさん制作することが難しい時代となり、十世・十一世共に残っている作品の数は僅かしかないといわれております。

そんな時代を経て、十二世昇斎が継承した後も厳しい時代が続きます。

しかし明治三十一年十一月に突然、皇太子(後の大正天皇)が朝日焼の窯場を、見学し作品を沢山お買い上げになりました。その後昇斎は一生懸命に努力し朝日焼の窯元の地位を立て直し、大正、昭和、平成へと続く礎を築き上げました。これ以後、皇族をはじめ要人の宇治訪問で朝日窯に立ち寄ることが恒例となり、皇室との関係は今日まで続きます。

その後、十三世光斎も戦争へと向かう厳しい時代を生き、十四世豊斎は戦後厳しい状況から築き上げる時代。そして、十五世豊斎十六世豊斎(当世)へと継承され、現在の朝日焼(松林家)があります。

十四世作:燔師茶碗

 

紅斑の御本手や刷毛目、彫三島、鹿背などが特徴です。

15世作:灰釉茶碗

 

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