茶の湯日記

日本の「茶之湯」の歴史

・平安時代

日本へ「茶を飲む習慣」と「茶の製法」は平安時代に遣唐使によってもたらされました。当時、茶は嗜好品としてよりは「」としてとらえ必要量のみ、煎じて飲んだと考えられています。

・鎌倉時代から室町時代

日本に禅宗を伝えた栄西が、中国から茶を持ち帰り九州に植えたと伝わります。そして宇治の明恵上人に茶の種を送り、それが宇治茶の起源とも言われております。このように茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していきました。

鎌倉時代最末期には、宮廷で、飲んだ水の産地を当てる「闘水」という遊びから、飲んだ茶の銘柄を当てる「闘茶」という一種の博打が催され、建武の新政・南北朝時代・室町時代には庶民や武士の間でも流行しましたが、あまりの流行に武家法(建武式目)で禁じられるほどであったようです。

この頃、本場中国の茶器「唐物」が珍重され、大金を使い蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行しました(唐物数寄)。この流行は応仁・文明の乱で茶会どころではなくなる十五世紀後半まで続きました。

これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説きました。これがわび茶の源流となっていったと考えられています。

・安土桃山時代

わび茶はその後、堺の町衆、武野紹鴎、その弟子、千利休によって安土桃山時代に完成されるに至りました。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷細川三斎牧村兵部瀬田掃部古田織部芝山監物高山右近「利休七哲」と呼ばれる弟子たちを生んでいきました。さらにはわび茶から発展し、織田有楽小堀遠州片桐石州ら流派をなす大名も現われました。現代では「武家茶道」「大名茶」などと呼び区別する場合もあります。

・江戸時代

江戸時代前期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心でごく限られたものでありました。その後江戸中期には町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加しました。これら町人階級を主とした新たな参入者を迎え入れたのが、町方の出自であった三千家を中心とする千家系の流派です。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態(家元制度)が確立しました。

江戸末期には、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い、気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきたようです。同時期には、単なる嗜好品と化していた煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがり、改めて煎茶の作法を定めた煎茶道もおこります。

・明治時代から現代へ

封建制度の崩壊とともに諸藩に庇護されていた各流派が財政的に困難に陥りました。そんな中、裏千家十三代円能斎鉄中は一時東京に居を移し茶道再興に努めました。この努力は有力財界人の関心を呼び、茶道が女子の教養科目として組み込まれるようになりました。このため茶道は、本来のわび茶とは別に「女子の教養」としての要素を獲得し、今では美しい着物姿に華やかな茶会が当たり前になっていきました。

戦後は、知識層から多くの伝統技芸が戦前・戦中のナショナリズム醸成に加担したとみなされ、茶道の家元も批判を受け追及されました。

一方で急速に進む「アメリカ化」による日本文化喪失に対して危機感も現れてきました。以後、日本固有の文化の保存という存在意義を茶道に浸透させていくことになりました。現在は茶道は世界的レベルに広まりを見せる一方で我が国内では茶道人口は減少傾向にあります。

この日本独自の良き伝統文化は残していかなければならないと私は思います。「茶の湯」が教えてくれること、それは日本人だからこそ感じられる「美しいもの・素晴らしいもの」がそこにあります。現代社会は若年層も中高年も日々の生活に追われ、腰を据えて何かに取り組む余裕が持てる時間が少ないのではないでしょうか?しかし、2020(令和2)年、大流行を巻き起こしたCOVID-19(新型コロナウィルス)の影響で生活様式がガラリと変わられた方々も多いのではないでしょうか?そんな時だからこそ「茶の湯」にまつわる事象を新しい生活様式に取り入れることができれば、少しでも「こころの余裕」が取り戻せることと同時に「健康面」においても効果が発揮されるのではないでしょうか。

 

古道具さわだでは、「茶の湯を気軽に楽しむ。」ということをコンセプトに「茶の湯喫茶を」設けております。作法などはひとまず横に置いて、ただただ抹茶一服を飲み、「茶の湯」がもたらしてくれる楽しい世界を体感していただけるようおもてなしができればと思っております。皆様の「茶の湯」への入口になっていただけましたら幸いにございます。

 

・店内風景

 

古道具さわだ:店主

 

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