茶の湯日記

茶之湯の大成者、千利休 ー茶人列伝ー

千利休(せんのりきゅう)

一五二二(大永二)~一五九一(天正十九)年

出自は堺(現大阪府堺)の魚問屋、田中与兵衛の子として生まれました。幼名は与四郎で、法名に宗易(そうえき)、斎号に抛筌斎(ほうせんさい)があります。茶の湯を北向道陳(きたむかいどうちん)らに師事しました。堺・南宗(なんしゅう)寺開山の大林宗套(だいりんそうとう)、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に参禅しました。

記録によると二十三歳の頃に初めて茶会を開きました(天文十三:一五四四年二月二十七日)。この時、奈良の恵遵房(えじゅんぼう)と松屋久政を招きました。五十代で織田信長の茶頭となり、その十年後には豊臣秀吉の茶頭となって、参謀として近侍しました。

「利休」の号は一五八五(天正十三)年の禁中茶会の時、正親町(おうぎまち)天皇より賜りました。一畳半座敷や二畳の茶室(国宝:待庵【たいあん】)などを築きました。高麗茶碗や長次郎の樂茶碗を茶道具に取り上げ、竹で花入や茶杓を作ったりするなど、茶の湯の「侘び」の美意識を強めました。このように茶道具において利休の形が雛型として現在まで受け継がれているものは沢山あります。

弟子には「利休七哲」(蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら)と呼ばれる武家茶人など数多く育て、江戸時代以降に発展する茶の湯の基礎を築きました。しかし一五九一(天正十九)年、秀吉の命により自刃、理由は諸説あるようです。

※参考資料:「茶湯人物ハンドブック」(淡交社編集局 編)

 

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