志戸呂焼(しとろやき)は遠江国榛原郡五和村字志戸呂(現静岡県榛原郡金谷町志戸呂)で焼かれたやきものです。遠州好みの七窯(遠州七窯)の一つでもあります。
窯に関して古くは行基焼の名もあります。
大永年間(一五二一~一五二八)の頃に葉茶壺の類を製陶しました。天正年中(一五七三~一五九二)には美濃国(岐阜県)久尻の陶工であった加藤庄右衛門景忠がこの地に来て五郎左衛門と改名し従業しました。
当時の浜松城主松平家康(後の徳川家康)がこの窯の細工を見た時、その技術を褒め称えて高30石のお墨付きを賜りました。
五郎左衛門が美濃国へ帰国した後は弟子がその名を名乗り家業を継いでいきました。
寛永年間(一六二四~一六四四)になると小堀遠州の意匠をもって茶道具を焼きはじめ「遠州七窯」の一つと称される。
享保年間(一七一六~一七三六)からは全ての器に「志戸呂」「質呂」の印を用いるようになったとされます。そして今日までに至ります。
土質は淡赤、釉色は濁黄または黒褐色で、焼は堅焼きを特徴としています。
※参考文献『原色陶器大辞典』『お茶の郷博物館:志戸呂焼・その形と美』
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