茶の湯日記

《買取作家》楽焼・樂吉左衛門・千家十職茶碗師

樂焼の始まり

時代は十六世紀の桃山時代、樂家初代にあたる長次郎によって始められましたた。中国明時代の三彩陶に歴史背景が見られます。
古い文書には長次郎の父にあたる唐人・阿米也(あめや)という人物の記載が確認されており、作品は伝わっておりませんが、この阿米也が中国より三彩陶の技法を伝えた人物といわれております。
長次郎作と伝わる最も古い作品は二彩の「獅子像」で一五七四(天正二年)と銘がある。そして樂茶碗が千利休の考案のもと、焼かれ始めるのはもう少し後の一五七九(天正七年)頃と推測されています。千家十職の職家になります。

なぜ楽焼って呼ぶの?

これまでの焼物にはなかった異なる方法・技術によって焼かれた樂焼ですが、利休・長次郎が生きていた時代には、「樂焼」という呼び方はされておらず、茶会記に登場する茶碗に「今焼」と記載されたものがあり、今、新しく作られた焼物という前衛的なニュアンスがあったのかおそらくこれが樂焼のことをさすのであろうといわれております。
ではなぜ「樂焼」と呼ばれるようになったのか?当初楽家は豊臣秀吉が建てた聚楽第の近くに居を構えていました。その聚楽第付近の土を用いてたことや、樂焼を考案した利休が聚楽第に屋敷を構えていたことなどから、後に「聚落焼茶碗」と呼ばれるようになったそうです。そこから略称されるようになり「楽焼」「楽茶碗」と呼ばれるようになったと考えられています。この他に豊臣秀吉から「楽」の印字を賜ったことからも推測されています。

樂家歴代

初代 長次郎(ちょうじろう)
?~一五八九(天正十七)年

唐人・阿米也の子。茶碗制作に先駆ける作品として一五七四(天正二)年の彫銘がある「二彩獅子(重文)」が知られています。利休との出会いはその頃にはすでに始まっていたと考えらておりますが実際に茶碗が制作されるのは「二彩獅子」の数年後で一五七九(天正七)年頃ではなかったかと考えられております。長次郎作の茶碗は利休の創意に基づくもので茶会記には「宗易形ノ茶ワン」(松尾茶会記:一五八六・天正十四)と記されているのも確認されています。この時期流行を見た高麗茶碗・他の国焼とは異なる独特の様式は利休の「侘び」の思想を表現しているといわれております。黒釉を用いた黒樂と胎土の聚樂土の色を現す赤樂茶碗があります。近年の研究において二代常慶田中宗慶と混同されていたものが識別されつつあるようです。

二代 常慶(じょうけい)
?~一六三五(寛永十二)年

長次郎の妻の祖父である田中宗慶の子。長次郎没後本格的に活動を始め、樂焼窯を統率し樂家の基礎を築いたといわれております。本阿弥家と法華信仰を通じ密接な関係を結び、光悦は常慶に茶碗を造りを学びました。またその光悦の紹介により樂家は徳川家・前田家に出入りを許され、徳川二代将軍秀忠より「樂」の印を拝領しました。以後樂家当主は「吉左衛門」を名乗るようになりました。沓形の茶碗、土見せ高台などなど新しい方向性を打ち出しました。黒樂茶碗を主にしながらも、香炉釉と呼ばれる白釉も生み出しました。

三代 道入・ノンコウ(どうにゅう)
一五九九(慶長四)~一六五六(明暦二)年

二代の長男。弟に道樂(吉右衛門・生没年不詳)がいる。親交のあった光悦の影響もうかがえて当時から「樂の妙手」と評価が高かったようです。通称のノンコウの由来は千宗旦より贈られた竹花生「ノンコウ」(宗旦と伊勢参りの際、立ち寄った茶屋「のんこ」の裏にあった竹を使用したと伝わる)を座右に置いていたためといわれております。この頃より皿、花入、香合、水指なども制作するようになりました。道入の茶碗は極めて軽やかでモダン性に富み、艶やかな光沢を持つ黒釉で、なかには抽象的な装飾のあるものもあります。幕釉・蛇蝎釉・砂釉・朱釉などの釉薬を創製しました。使用印は「自樂印」(樂の字の中央部が自となっていることから)と称されるものがある。

四代 一入(いちにゅう)
一六四〇(寛永十七)~一六九六(元禄九)年

三代の長男。父の逝去によりわずか十七歳にて家督を襲名。一六九一(元禄四)年、剃髪をし隠居。「一入」と称しました。当初は父の影響の中で力強く大胆な作風を示したようですが利休回帰の時代風潮もあり初代長次郎に倣った小ぶりでおとなしい作品へと変わっていったようです。道入に始まる「朱釉」(黒釉の中に銅の赤色が浮かび上がるように発色する)を完成させたほか、具象的な絵を描くこと、また自らの茶碗の箱に書付をすることもこの一入から始まったとされております。

五代 宗入(そうにゅう)
一六六四(寛文四)から一七一六(享保元)年

四代の養子。呉服商雁金屋三右衛門の子。四代の娘・於津(のちに妙通と)を妻にする。尾形光琳・乾山とは従弟にあたり曽祖母は光悦の姉・妙国。28歳での一入の隠居に伴い五代を襲名。一七〇八(宝永五)年、四十五歳の時に剃髪し隠居しました。表千家五代隋流斎宗左の一字を授かり「宗入」と称しました。作風は初代長次郎を慕い光沢のある黒釉は失透性にもどり、この宗入独特の黒釉を「カセくすり」と称しました。赤樂は白身をおびえているのが特徴。厚づくりでぽってりとした落ち着きのある姿が特徴です。

六代 左入(さにゅう)
一六八五(貞享二)~一七三九(元文四)年

五代の婿養子。二十四歳で襲名。一七二八(享保十三)年に剃髪隠居。表千家六代覚々斎宗左より一字授かり「左入」と称しました。一七三三(享保十八)年、二百碗の連作「左入二百」(表千家七代如心斎書付)が有名。歴代の名碗、光悦や瀬戸黒などの国焼き茶碗からも学んだようで作風は多様かつ個性的な作風を見せています。黒樂は「カセ」、赤樂は白濁した釉薬がよく用いられています。

七代 長入(ちょうにゅう)
一七一四(正徳四)~一七七〇(明和七)年

六代の長男。十五歳で襲名。一七六二(宝暦十二)年、剃髪隠居します。初代長次郎より一字を採って「長入」と号しました。厚手で豊かな量感をもつ大ぶりなものが多く黒釉は艶のある漆黒を呈しています。赤楽には数種類の色調があります。細工物に長じ七宝透かしや、交趾風の釉薬、金彩などを駆使し技巧的な作品を試みました。

八代 得入(とくにゅう)
一七四五(延享二)~一七七四(安永三)年

七代の長男。十八歳で家督を継ぐも病弱なため一七七〇(明和七)年の長入の逝去に伴い弟惣次郎(後の九代了入)に家督を譲り隠居して「佐兵衛」と改名しました。法号は二十五回忌の追善に贈られています。三十歳で亡くなったため作品数は少ないですが茶碗としての完成度は高く評価されています。

九代 了入(りょうにゅう)
一七五六(宝暦六)~一八三四(天保五)年

七代の次男で八代の弟。十五歳で家督を継ぎました。一八一一(文化八)年、五十六歳で剃髪隠居し表千家九代了々斎より一字授かり「了入」と号しました。一七八八年の天明の大火で長次郎以来の陶土を焼失する不幸に見舞われながらも楽家の磐石な基礎を築いたことから中興の祖と称されております。一八一九(文政二)年、紀州徳川家御庭焼「偕楽園焼」を開窯するにあたり了々斎に従い十代旦入とともにおもむきました。作風は三つの時期に分けられるとされます。襲名から明暦の大火までは比較的温和とされ、大火後から剃髪までは大胆な箆削りによる力強さがあるとされ、隠居後の23年間は自由闊達とされています。またこの三期で印も分けており、それぞれ「火前印」「中印」「草楽印(隠居印)」とあります。また「翫土老人」(了々斎より与えられた翫土軒の扁額による)の印もあります。

十代 旦入(たんにゅう)
一七九五(寛政七)~一八五四(嘉永七)年

九代の次男。長男の天折により十七歳で家督を継ぎました。文政二年に了入に従い紀州徳川家の御庭焼「偕楽園窯」を手伝い10代徳川治宝(はるとみ)より「樂」の印判を受領します。十一代斉順(なりゆき)の御庭焼「清寧軒窯」の開窯にも奉仕、唐津織部志野を写し自らの作陶に生かしました。一八四五(弘化二)年、剃髪隠居し表千家十代吸江斎から千宗旦の一字を授かり「旦入」と号しました。九代の箆使いを主体にした造形をさらに発展させ技巧的に完成させました。赤楽では強い火変わりや窯変など変化にとんだ作品が多い。

十一代 慶入(けいにゅう)
一八一七(文化十四)~一九〇二(明治三十五)年

十代の婿養子。二十九歳で襲名。一八七一(明治四)年、五十五歳で剃髪隠居。茶道に精進し表千家十一代碌々斎より皆伝を受ける。明治維新の茶道衰退期にあった七十五年の作陶生活の中で茶碗に限らず皿・鉢、懐石道具、煎茶道具までも手がけ歴代中最も多種多様な作品を残しています。作風は箆削りを主体に薄造りで瀟洒(しょうしゃ:すっきりとしゃれている様子。俗っぽさがなく、あかぬけしていること。)な趣。

十二代 弘入(こうにゅう)
一八五七(安政四)~一九三二(昭和七)年

十一代の長男。十五歳で襲名。一九一九(大正八)年、六十三歳で隠居。明治の青年期には茶碗の注文も少なかったが大正時代の茶道復興を受け大いに作陶に励みました。隠居後は滋賀県石山に退き作陶のかたわら茶の湯・俳諧を楽しみました。温和な人柄を反映した丸みのある穏やかな作行のなかに多彩な箆使いがみられます。黒楽の二重幕釉を得意としました。特徴的な印「8樂印」(樂の幺の部分が数字の8に見えることから)が知られています。

十三代 惺入(せいにゅう)
一八八七(明治二十)~一九四四(昭和十九)年

十二代の長男。一九一九(大正八)年に襲名。隠居をしないまま五十八歳にて逝去しました。親交の深かった表千家十二代惺斎の一字を授かり「惺入」としました。相次ぐ戦争による混乱の時代に樂家の伝統を守ろうとした姿勢が作品からもうかがわれる。また各地の鉱石を採取して釉薬の研究にも熱心に取り組まれました。

十四代 覚入(かくにゅう)
一九一八(大正七)~一九八〇(昭和五十五)年

十三代の長男。終戦帰国後の前年に他界した十三代の後を継ぎました。現代と伝統の融合を目指し造形性に富んだ箆削りの技法を主体に新たな樂茶碗の世界を切り開きました。一九七七(昭和五十二)年には樂家伝来の歴代作や資料を寄贈して財団法人「樂美術館」を設立しました。翌53年には、文化庁より技術保存のための無形文化財保持者に認定されました。黒樂茶碗は伝統的な古格を感じさせる一方で赤樂はモダンな作為が横溢(おういつ:あふれるほど盛んなこと。)したものが多い。

十五代 直入(じきにゅう)
一九四九(昭和二十四)年~

一九七三(昭和四十八)年、東京藝術大学彫刻科を卒業後、イタリアのローマアカデミアで学び一九八一(昭和五十六)年に十五代を襲名されました。フランスをはじめヨーロッパ、ロシア、アメリカなど海外でも活躍されております。また陶芸以外にも写真・建築設計にも携わり佐川美術館の設計監修にも携わっておられます。焼貫技法による斬新かつ前衛的な樂茶碗、茶入、水指などを制作されております。当時「今焼」と呼ばれた長次郎と同じく樂の現代性を鋭く問い続けておられます。2019(令和元)隠居され直入と名乗られました。

十六代 樂吉左衛門
一九八一(昭和五十六)年~

十五代の長男。二〇一一(平成二十三)年、二十九歳より作陶生活に入り、父十五代より「惣吉」の花押を受けました。平成二十八年高田明浦老大師・大徳寺管長より「樂」の字をいただき、二〇一九(令和元)年七月、十六代を襲名されました。

※代々吉左衛門を襲名し、剃髪隠居の際に「入」とつく隠居名とするならいです。

※参考資料「茶道具の名工・作家名鑑ー淡交社編集局編」(淡交社)

 

 

 

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