金森宗和(かなもりそうわ)一五八四(天正十二)~一六五六(明暦二)
名は重近(しげちか)。飛騨高山城主父可重(なりしげ)の嫡子として生まれました。祖父長近(金森法印)は利休に父の可重は道安に茶法を直伝された茶人大名でした。従って宗和もその薫陶を受けました。しかし、大阪冬の陣の際、親の勘当を受け母と共に国を離れ京へ上ることになります。
上京とともに大徳寺の紹印伝双に参禅剃髪し「宗和」の号を拝しました。京では様々なつてを求めて当時の文化人、特に皇室、公家関係との交流を深めていきました。上は後水尾天皇、後西天皇をはじめ、各宮家、公家においては近衛信尋、一条昭良ほか諸公、そのほかに大徳寺諸僧や小堀遠州、片桐石州ら大名茶人とも親交を持ちました。
宗和の茶風はというと、すべてにやさしく雅びな気風が看板とされ「姫宗和」という呼称がついております。これは公家社会と密着した宗和にとって、その好み物や茶風が雅びになるのは自然の成り行きだったと考えられます。
また宗和の茶を考えるうえで見過ごせないことは、御室焼(おむろやき)、野々村仁清の存在です。前代までには無かった独創的な優れた彫塑性、立体感ある色彩感覚、絵画性にとんだデザインなど、その作品は宗和を通じて諸方面に流布していったと考えられています。宗和の茶会記にこの御室焼が一茶事に多数の記録がなされており、御室焼の展示場の感覚さえイメージできるほどだそうです。宗和が実際仁清のデザインにどこまで関わったかは明らかではないようですが、桂離宮や修学院離宮のデザインに通じる寛永の「綺麗数寄」が共通していることは明らかだとされています。
※参考文献:「江戸時代の茶の湯ー織部・遠州・宗和・宗旦とその流れ」(日本経済新聞社)
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