茶の湯日記

《買取作家》飛来一閑・千家十職一閑張師

飛来一閑(ひきいっかん)ー千家十職飛来家ー

 

飛来一閑(ひきいっかん)家は、渡来人の初代が創始した一閑張細工という独特の漆技法を伝承する家系です。

 

初代 飛来一閑:一五七八(天正六)~一六五七(明暦三)年

中国明代に浙江省杭州市にある飛来峰の山裾の生まれ。明末清初の動乱を逃れるため寛永年間(一六二四~一六四四)に大徳寺の清巌を頼って来日し、飛来姓を名乗り京都小川頭に家を構えました。清巌を通じ千宗旦の知遇を得、茶の湯に心酔し、一閑張を始めたところ宗旦の眼に適い世に知られるようになったようです。

二代 飛来一閑:?~一六八三(天和三)年

初代の子。事績は不詳で、剃髪後一閑と名乗ったと伝えられています。二代の姉ゆきは御所に仕官する岸田喜右衛門に嫁ぎ、京都烏丸付近で一閑張細工を始めた。岸田家は後に何代か続いたようです。その作品には飛来家と区別するため「岸」、「岸一閑」と印が押されました。

三代 飛来一閑:?~一七一五(正徳五)年

二代の子。叔母のゆきより一閑張細工を学び、智恵光院下立売付近に住し一閑張を再興しました。

四代 飛来一閑:?~一七三三(享和十八)年

初代が千宗旦と懇意であったことから千家の出入りが許され表千家六代覚々斎の指示で棗・香合など好み物を制作したといわれております。

五代 飛来一閑:?~一七四一(寛保元)年

表千家七代の愛顧を受け、一閑張茶道具の他、茶筅、羽箒、露地笠、円座、草履などを制作したといわれております。そのうち茶筅は仕様・寸法が代々伝えられ、現在も取り扱われています。

六代~九代 飛来一閑

詳細はわからず。六代:?~一七四六(延享三)年、七代:?~一七五〇(寛延三)年、八代:?~一七五三(宝暦三)年、九代:?~一七八八(天明八)年。

十代 飛来一閑:一七五七(宝暦七)~一八三〇(文政十三)年

九代の子。天明の大火(一七八八)とその直後の父の死という苦難を乗り越え家業の再興に励みました。十代以降才右衛門を襲名後の通称とし、剃髪後一閑と号する慣わしになりました。

十一代 飛来一閑:一七九一(寛政三)~一八七二(明治五)年

二十六歳で家業を継ぐ。表千家十代吸江斎の好み物を多く手掛ける。別号の有隣斎から有隣一閑とも称され、花丸一閑、ウリ一閑と俗称されました。先祖伝来の作風を尊重しながら独自の技術で格調高い作品を特徴とし初代以来の名工と謳われました。七代駒澤利斎との合作も残しています。

十二代 飛来一閑:一八二二(文政五)~一八九七(明治三十)年

十一代の二男。兄の早世により家督を継ぎました。表千家十一代碌々斎の好み物が多く、重厚で雅趣にとんだ作風で知られる。

十三代 飛来一閑:一八五九(安政六)~一九一三(大正二)年

十一代の早世した長男の子。剃髪をしないまま生涯を終えました。表千家十二代惺斎の好み物を制作。

十四代 飛来一閑:一八九四(明治二十七)~一九七七(昭和五十二)年

十三代の長男。実子二人が戦死、後に十五代を養子に迎える。表千家十三代即中斎好み、裏千家十五代鵬雲斎好みが知られている。華やぎのなかに侘びた作風が特徴。

十五代 飛来一閑:一九二四(大正十三)~一九八一(昭和五十六)年

十四代の養子。養父没後に十五代を継ぐも四年後に五十六歳で生涯を終えました。

十六代(当代) 飛来一閑:一九六三(昭和三十八)年~

十五代の長女。十五代没後、一閑張の技術を継承すべく修業を積み、一九八七(昭和六十二)年に表千家家元に初出仕、一九九八(平成十)年に十六代を襲名しました。

 

※参考資料「茶道具の名工・作家名鑑ー淡交社編集局編」(淡交社)  

 

 

当店では飛来一閑の作品を買取りしております。

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