中川浄益(なかがわじょうえき) -千家十職中川家-
中川浄益家は、江戸時代初期より代々金工で金物師の家系で千家十職の一職です。十一代逝去後は残念ながら現在当主は空席となっている。
初代 中川紹益 一五五九(永禄二)~一六二二(元和八)
越後国(現新潟県)高田郡の出身。甲冑・鎧など武具鋳造を家業としていましたが、天正年間(一五七三~一五九二)に上洛し火箸・鐶などの銅鉄具を製造しました。北野大茶湯に際し、利休の依頼で薬鑵(薬缶)をつくって技倆(ぎりょう)を認められたと伝わっております。
二代 中川浄益 一五九三(文禄二)~一六七〇(寛文十)
初代の長男。寛永年間(一六二四~一六四四)ころから表千家に出入りし四代江岑宗左より灰屋紹益と紛らわしいので浄益と改めるように言われ、以降代々「浄益」を名乗るようになりました。妻の父金森宗和の指導のもと茶道具を制作したといわれております。
三代 中川浄益 一六四六(正保三)~一七一八(享保三)
二代の長男。鋳物の技術にたけ、南蛮渡来の砂張の模作に成功し砂張青海盆を制作したと伝わっております。
四代 中川浄益 一六五八(万治元)~一七六一(宝暦十一)
享年百余歳まで、長男・次男とともに家業をまっとうしたようです。
五代 中川浄益 一七二四(享保九)~一七九一(寛政三)
四代の三男。この五代以降歴代が通称吉右衛門を襲名するようになりました。鋳物を得意とし表千家八代啐啄斎好みを主に制作しました。
六代 中川浄益 一七六六(明和三)~一八三三(天保四)
五代の長男。表千家八代啐啄斎の機嫌を損ねたため、一時裏千家に出入りしていましたが、表千家九代了々斎に許された後は家業を大きく発展させました。歴代きっての茶人でもあったといわれています。
七代 中川浄益 一七九六(寛政八)~一八五九(安政六)
六代の長男。書付の特徴より、「いがみ浄益」と称されました。天明の大火(一七八八)により伝来の古文書などを焼失したことを憂いて「藤原中川家系図」を綴り、先祖代々の石塔を新調するなど家系の温存に尽力しました。砂張打物の名人と伝えられております。
八代 中川浄益 一八三〇(天保元)~一八七七(明治十)
七代の養子。株式会社浄益会社を興して金銅器や美術工芸品の輸出に務めましたが不振により撤退しました。
九代 中川浄益 一八四九(嘉永二)~一九一一(明治四十四)
八代の長男。明治維新と八代が残した借財を背負いつつ、家業を守り抜きました。
十代 中川浄益 一八八〇(明治十三)~一九四〇(昭和四十)
九代の長男。明治・大正・昭和の三代に渡り家業を守り抜きました。多様な技法を用いて茶道具を制作しました。
十一代 中川浄益 一九二〇(大正九)~二〇〇八(平成二十)
一九四一(昭和十六)に家督を継ぎました。南鐐を得意とし、表千家十四代而妙斎、裏千家十五代鵬雲斎好みの茶道具を制作しました。逝去後は残念ながら現在まで当主は空席となっております。
※参考資料「茶道具の名工・作家名鑑ー淡交社編集局編」(淡交社)
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