茶の湯日記

《買取作家》大樋長左衛門・大樋焼、石川県のやきもの

大樋長左衛門(おおひちょうざえもん)

大樋焼樂焼の技術を伝えた支流。樂家のように千家(主に不審庵)と盛衰を共にしつつ存続した家ではなく、基本的に加賀藩主前田候の御庭焼の一つとして、樂焼風の茶陶を作陶した家にあたります。焼成当時は樂焼のように京都を中心に広く流布されることもなかったため作品もさほど大量には作られてなかったと考えられております。 現在は茶陶としての地位は高くその歴史は350年になります。

◎初代長左衛門(芳工庵)

伝えによりますと河内国土師村の土師氏の出になり、土師氏二十三代目であったといわれております。初名を長二といいました。 一六五六(明暦二)年、京都に出て二条河原町に住み樂家の四代一入の門に入ったそうです。一六六六(寛文六)年に加賀藩の茶頭であった千宗室仙叟の推挙で藩主前田綱紀の召に応じ加賀に下ったといわれております。金沢の東郊大樋村に地を賜ったのでそれに因んで「大樋焼」と呼ばれ、姓も「大樋」としたとされます。 初代の作品は少なく、残っているものの多くは「仙叟好」として伝承されているものとされます。在印のものは稀で、多くは無印と確認されています。確認されている中に「大樋長」の円印があります。一七一二(正徳二)年、八十三歳にて没。

 

◎二代長左衛門(芳土庵)

初代の長男、初名は長二。初代同様二代の作も少なく作風の全貌がうかがえないようですが、確認されているものから優れた手腕の持ち主であったと考えられています。印に「大樋」円印、「大樋」楕円印があります。一七四七(延享四)年、八十七歳にて没。

 

◎三代勘兵衛(芳土庵)

二代の次男。独特の「大樋」円印があります。また二代の楕円印を用いているものもあるとされています。一八〇二(享和二)年、七十五歳にて没。

 

◎四代勘兵衛(土庵)

三代の三男、一八一六(文化十三)年六十六歳で隠居し「土庵」と号しました。大樋代々の中では名工と称されております。印には三種あり、「大樋」円印、楕円印、角印があります。一八三九(天保十)年、八十九歳にて没。

 

◎五代勘兵衛(芳土庵)

四代の長男で長左衛門とも称しました。十三代藩主斉広の寵遇を受けたと伝えられています。印は「大樋」の円印(字体の異なる三種)。一八五六(安政三)年、七十六歳にて没。

 

◎六代長左衛門(朔太郎)

五代の長男。初名を「朔太郎」と称した。一八五六(安政三)年、四十二歳にて没。五代父と同じに没したことになり早世でありました。印は「大樋」円印。

 

◎七代長左衛門(道忠)

五代の四男、六代の弟に当たります。幕末~明治維新の動乱期に家督を相続したため苦労も多かったようで一八六九(明治二)年に一度廃業もしました。しかし一八八六(明治十七)年には改めて大樋町の隣、春日町に新しく居を構え窯を興しました。印に「大樋」円印、長方印があります。一八九八(明治二十九)六十一歳にて没。

 

◎八代長左衛門(松濤、宗春、以玄斎)

七代の従弟になり、初め奈良理吉といい、後に大樋家を継ぎました。号を「松濤」、また今日庵圓能斎から「以玄斎宗春」の号を与えられました。印は「大樋」円印、鍔型印があります。一九二七(昭和二)年に七十七歳にて没。

 

◎九代長左衛門(陶土斎)

八代の長男。茶陶の名工としてうたわれる。裏千家十五代鵬雲斎家元より「陶土斎」の称号を与えられました。一九八六(昭和六十一)年、八十六歳にて没。印に「大樋」「長左衛門」円印、「陶土斎」楕円印があります。

九代大樋長左衛門作、飴釉茶碗

・九代大樋長左衛門作、飴釉茶碗

九代大樋長左衛門陶印

・九代陶印

九代大樋長左衛門箱書銘

・九代箱書

◎十代長左衛門(年朗、陶治斎)

一九二七年~、印に「年」丸、角印、「大樋」「十代大樋」「長左衛門」丸印があります。

大樋年朗(十代大樋長左衛門)作、黒茶碗

十代襲名以前年朗時代作、黒茶碗

大樋年朗(十代長左衛門)箱書・陶印

・年朗時代陶印と箱書

◎十一代長左衛門(年雄)

一九五八年~、二〇一六年、十一代長左衛門襲名。

 

 

当店では大樋焼、大樋長左衛門の作品を買取りしております。

 

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