茶の湯日記

第二章・平安時代の喫茶ー茶の湯の歴史

平安時代の喫茶

・団茶(だんちゃ)時代

わが国日本において喫茶の風習という形は遅くとも平安時代までには伝わっていたとされます。記録からは「団茶(茶葉を固めたもの)」と呼ばれるものでした。これはおそらく遣唐使がお隣の中国から運んだものであると考えられています。当時、茶はとても貴重なものであったため、天皇や貴族、僧侶などの高貴な身分の人たちの飲み物でした。

淳和天皇(じゅんなてんのう:七八六~八四〇)が皇太子の時に歌った漢詩の一節に「暑さを避け松の下で涼風を追い、琴を持ちて青桐(あおぎり)の木の間で茶を撞(つ)く」と喫茶の風景が詠まれています。

「搗く」とは、「砕く」というような意味をもちます。ですのでここでは「団茶」を「砕く」ことを意味しています。このように喫茶と漢詩が中国文化の一環として考えられていたこともわかってきます。

嵯峨天皇(七八六~八四二)の時代、八一五(弘仁六)年四月に琵琶湖へ遊覧の途中で梵釈寺(ぼんしゃくじ:大津市)を訪れた際、住職が茶を煎じて差し上げたことも「日本後紀」に残っています。また六月には畿内並びに近江、丹波、播磨などの国で茶を植え、毎年献上するよう命令もくだしており、茶をとして安定的に納入させたかったのではないかと考えられています。

 

・仏教と茶の栽培

奈良時代つづく平安時代には寺院内には茶園が設けられていたそうです。その茶は行事にはもちろんのこと、来客などでも振舞われていたようすです。仏教で国の安泰をはかろうとしていた時代(鎮護国家)において寺院が盛んに造られ駿河や三河の寺院などにも茶園が広まっていったそうです。

この頃「引茶(ひきちゃ)」と呼ばれる僧侶に振舞われる茶があったようです。国家安泰を祈るため多くの僧侶を朝廷に招き、春秋の二季に「大般若経」を読む行事がありました(季御読経:きのみどきょう)。三、四日間行われ、二日目に参加した僧侶たちにこの「引茶」というものが振舞われたようすです。

引茶とは行事担当の貴族が僧侶たちに茶を勧めます。この時好みで甘葛(あまづら、甘味料のひとつ:ブドウ科のツル性植物(ツタなど)のことを指しているといわれる。)・厚朴(こうぼく、漢方薬 に用いる 生薬のひとつ:モクレン科 カラホオノキ の樹皮を乾燥したもの。)・生姜などの調味料を加えたとされます。当初この日の茶は外部調達であったようですが、後に内裏に茶園が造園され造茶役人なる管理人がいたようです。

滋賀県大津市の坂本には、比叡山延暦寺を開いた最澄(七六七~八二二)によると伝わっている「日吉茶園」という茶園が残されています。これは最澄が延暦寺や日吉大社においての行事のために開いた茶園と伝えられているようです。また最澄が中国の天台山から茶の種を持ち帰り植えたとする伝承もあるようです。

 

 

次回は「唐物の輸入・広がり」です。

※参考文献「一日五分 茶の湯の歴史/谷端昭夫(淡交社)」※

 

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